カンボジア史③(植民地時代と内戦)
---フランス植民地時代---
西欧諸国がインドシナへ進出してきたのはイギリスが最初でしたが、
それに遅れてフランスも進出してきます。1853年、鎖国主義を取り、キリスト教を弾圧する阮朝ベトナムに対し、 在留フランス宣教師を守るという名目でフランスはベトナムを攻撃。 ベトナムはそれに抗することができず、結果としてメコン川下流域を失うことになります。 タイとベトナムの侵攻に苦しんでいたカンボジア王国(旧・クメール王国)は、そのフランスに 救いを求め、1863年にフランスの保護下に入ります。 1885年にフランスはベトナムの宗主国である中国・清王朝を破り、ベトナムを保護国とし、 さらに1893年にはタイも破って、ラオスをも保護下に置きます。 現在のベトナム・ラオス・カンボジアがフランスの植民地となったわけです。 日本は日清戦争の前年。 明治時代を迎えていました。
---カンボジアの独立---
長い植民地支配に終止符を打ったのは、第二次世界大戦でした。
日本軍によってインドシナのフランス軍が駆逐されると、1945年3月にラオスやベトナムと共に
独立を宣言します。いわば日本軍の保護の下、独立を果たしたわけです。
このとき独立を宣言した国王がシハヌークです。が、同年8月には日本が連合軍に降伏。 独立は白紙に戻ってしまいます。 それに対する各国の対応は様々でした。 隣国ベトナムでは政変が勃発し、独立派が政権を握り、フランスとの戦争へと突入します。 一方のカンボジアは、かつてのベトナムによる支配という苦い経験から、強国の保護なしでの独立には 懸念を感じ、フランスの保護下に戻ることを選択します。 しかし、国王シハヌークはしたたかでした。 フランス保護下にありながら、フランスからの独立を国際世論に訴える戦略に出たのです。 この国際世論に押される形で1949年に不完全ながらも独立が認められます。 しかし、シハヌークはそれにも満足せず、フランスに握られたままの警察権・軍事権を取り戻すべく抗議の 姿勢をみせます。これにカンボジア国内も反応。反仏デモが盛り上がり、1953年についに 完全独立を果たします。
---ポル・ポトの台頭---
平和に独立を達成したかにみえたカンボジアですが、隣国の戦乱がこの国を再び戦乱へと巻き込むことになります。
ベトナム戦争がその戦乱です。北ベトナムへの空爆を繰り返すアメリカをシハヌークは非難し、ついにはアメリカと断交します。 これがアメリカを刺激することになります。 1970年、親米派のロン・ノル将軍がクーデターを決行。シハヌーク政権は崩壊します。 これはアメリカが裏で糸をひいていたとも言われていますが、どうでしょうか。 反ベトナムキャンペーンを展開したロン・ノルはベトナム系住民を虐殺。 さらに、カンボジア国内で北ベトナムを支援する組織を壊滅させるため、アメリカ軍に国内を空爆させます。 これらの政策は国民の反発を招くことになります。 右派が支持を失えば、左派が支持を広げるのは、この時代の世界の潮流といっていいでしょう。 カンボジアもその例外ではありませんでした。 そうして台頭してきたのが悪名高いポルポト率いるクメール・ルージュです。 1973年にアメリカがベトナム戦争から撤退すると、ロン・ノル政権は強力な後ろ盾を失う形になります。 逆に中国の支援を受けたポルポト派は急速に勢力を拡大。 1975年にロン・ノルは国外へ亡命し、ポルポト派がカンボジア全土を掌握します。
|
Copyright © 2008 はとポッポ all right reserved.