カンボジア史②(クメールの繫栄)
---クメール王国---
シャイレーンドラ朝からの開放者として立ったのが、ジャヤヴァルマン2世です。
彼が旧真臘王国を再統一し、建国したのが、後世に数多くのアンコール遺跡を残したクメール王国です。
即位は802年頃のことでした。その後、王国は繁栄を極め、各地に寺院を建築し、その威勢を誇ります。 それが現在も各地に残るアンコール遺跡となっています。 例えば、ロリュオス遺跡内のプリア・コーは879年、東洋のモナリザで有名なバンテアイ・スレイは967年の建築。 こうした寺院を次々と建築したのは、現人神としての権威を誇示するためとも言われています。 12世紀の前半にはアンコールワットが建設され、その繫栄は絶頂を迎えたかに思われました。 が、王の死後、王朝は一気に弱体化します。 海洋交易で興隆してきた隣国チャンパが侵攻してきて、首都が陥落。 王も殺害されてしまいます。 1177年のことです。 中国は北宋が滅亡し、金と南宋の南北に王朝が対峙する時代へと突入していました。 日本はというと、平家の全盛時代で、まさに武家政治の黎明期といえる時代です。
---ジャヤヴァルマン7世---
まさに滅亡の淵に瀕したクメール王国を救ったのが、英雄ジャヤヴァルマン7世です。
彼はゲリラ戦を展開して、チャンパ軍を撃退し、1199年にはチャンパの首都を占拠するまでになります。
その支配圏はインドシナ半島全域に及ぶ大帝国となったのです。また、王都の防衛力を高めるため、アンコールトムを建設。 また、歴代王初めての仏教徒であったことから、各地に仏教寺院を多く建設します。 ガジュマルの木が遺跡に絡みついていることで有名なタ・プロームなどがそうですね。 これら多大な建設は国力を蝕むことになったのかもしれません。 彼の死後、帝国は一気に衰退していくことになります。 13世紀後半には、北の大地に成立した大帝国モンゴルが金と南宋を滅ぼし、ついにインドシナまで侵攻してきます。 この大帝国の前に、クメール王国は朝貢を余儀なくされます。 中国はモンゴル元帝国の時代、日本は鎌倉時代末期のことです。
---暗黒の時代---
1351年、西隣のタイで東南アジア史に大きくその名を刻む国が建国されます。
アユタヤ王朝です。
この新興国家は瞬く間にインドシナに覇を唱え、落日のクメール王国へ何度も侵攻してきます。
クメール王国にこれを防ぐ余力はなく、度重なる侵攻に疲弊し、ついに1431年、アンコールトムが陥落。栄光のアンコールは終焉を迎え、インドシナの覇権はタイのアユタヤへと移ったのです。 但し、王国が滅亡したわけではありませんでした。 アンコールを失った王国は、首都を転々と変えながら継続していったのです。 その間、隣国のタイやベトナムは王朝を代替わりしながらも、侵食を続けます。 いや、むしろまるでそれぞれの属国であるかのように扱い、カンボジアを巡って、両国は争っていました。 そのようにして、メコン川下流域(現在のホーチミンシティ周辺)はベトナムの手に渡っていったのです。 1845年、タイとベトナムの間で平和条約が締結され、カンボジアは事実上両国の二重属国状態に陥ったのです。 この時期、中国でアヘン戦争が勃発し、西欧諸国による植民地化の波がアジアに押し寄せていた時代です。 日本は、ペリー来航の9年前と幕末を迎えていました。
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