カンボジア史①(扶南、真臘)
---扶南王国---
カンボジアの歴史は扶南に始まる。 謎の多いカンボジアの歴史ですが、おそらく、そのことに対する異論は少ないでしょう。

東南アジアの国々の多くがそうであるように、この扶南王国もインド文化の影響を 色濃く受けた国でした。成立は1,2世紀頃で、カンボジア南部からベトナム南部にかけて のメコン川下流域に栄えた海洋交易国家といわれています。

同時期に東の隣国ベトナム中部で成立したチャンパ王国もやはりインドの影響を受けた 海洋交易国家で、この時期のインドが活発な海洋交易を行っていたということでしょう。

早期に文明が発達したインドと中国という二大国に挟まれた東南アジアはそれらの影響を受けざるを得ないですが、 カンボジアの場合はインドの影響のほうを強く受けたというわけです。

対して、カンボジア北部に位置するラオスや、カンボジアからみて東北に 位置するベトナム北部などは、中国に近いために、その影響のほうが強かったようです。

インドの影響を受けたカンボジアは、インド発祥の宗教であるヒンズー教や仏教の影響も大きく受けていきます。 その過程でインド神話もまた、土俗の伝承と結びつき、カンボジアの文化の中に深く根付きます。 カンボジアにおけるナーガ信仰はその好例のように思いますが、どうでしょう。 もともと豊穣をもたらすと同時に氾濫により全てを奪うメコン川に対する恐れ崇める気持ちが、 インド神話で気候を司る蛇神ナーガを受け入れる素地であったように思います。

交易で繫栄を誇った扶南王国にも終焉の時がやってきます。 属国であった真臘が勃興してきたのです。

中国が隋から唐へと王朝が変わろうとしている時代のことです。 日本は、というと聖徳太子が活躍していた時代ですね。

---真臘王国---
真臘は、現在のカンボジアで大半を占めるクメール人の国と言われ、6世紀中頃に扶南より独立を果たした といわれています。ラオス南部に位置し、徐々に南下を始め、7世紀になるとついに扶南を吸収 してしまいます。

目を転じて、インドをみると北インドを支配したクプタ朝が6世紀中頃に滅亡し、インドは小国家乱立の混乱時代へと突入していました。 活発な海洋交易を行っていたクプタ朝の滅亡が扶南の衰退に影響を及ぼしたといえそうです。

クメール文字が生まれたのもこの王国の時代といわれています。 現代のカンボジア文化の基礎がこのときに生まれたわけです。

しかし、この真臘王国も安定した支配を確立することはできませんでした。 国家は分裂を繰り返すことになります。

ジャヤヴァルマン1世の時代に一時的に統一されますが、その死後またも分裂するという有様でした。 707年頃、王国は大きく2つに分裂します。 それが陸真臘と水真臘です。

これは中国の大唐帝国の隆盛と無関係ではないと言われています。 唐は最盛期をもたらした玄宗皇帝の治世が始める約5年前であり、まさに大繫栄を誇っていたのです。 その版図も大いに拡大。陸路を通じても唐との交易が可能となったのです。 そのことが陸路での交易をメインとする陸真臘と、海路での交易をメインとする水真臘と、南北に分かれる原因となったというわけです。

8世紀後半には、ジャワ島(インドネシア)のシャイレーンドラ朝が侵攻してきて、水真臘はその支配下に入ることになります。 ちなみにシャイレーンドラ朝というのは、有名なボロブドゥール遺跡を建築したことで有名な王朝です。 そういった大きな建築を築いたことでも分かるように、かなり大きな勢力をもっていたといわれています。

この時代の東アジアは唐の玄宗皇帝の後半生の失策により大規模な反乱を招き、唐の繁栄に陰りが見え始め、 日本はというと、平安京に都を移していよいよ日本独自の平安文化が花開こうととしている時代でした。

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